2006年08月04日

ほどく〜かつて会津の容保公は

 ここを読んでいる(偶然でもなんでも)諸兄姉に質問。
「天皇陛下」とゆーたら、一体どの天皇を連想します?

 数年前、三笠宮殿下のオリエントについての公演をお聞きする機会に恵まれたことがある(いーだろー<こら)。
 すたすたと入ってこられた殿下を一目見た途端、己は必死で口を押さえたものである。
「うわー天皇陛下そっくりっ!」と……口走りかけたから。
 
 この時の『天皇陛下』は、昭和天皇陛下である。
 よって己の場合、やはり一番印象に深いのは、昭和天皇陛下である。
 そういう奴の……まあ、一文と思っていただけると幸いである。

 
  さて。
 十日ほど前に天皇陛下の靖国についてのメモが出て以来、色々な意見をネット上で見る。
 メモの真贋は己には分からない。そもそも見たのはネットに出ている画像のみ、それで真贋が判ったら己はバケモノもしくはイタコである。
 だから、今のところ己はこれを、本物と見るより他は無いのである。

 ただ、このメモが表に出て……まして総裁選だの首相の靖国参拝だのと扱われることを、昭和天皇陛下は望んでおられたのか。それにこのメモを書いた富田氏は、そんなことを意図しておられたろうか。
 どちらにも己は、否、と思うのである。昭和天皇陛下がこのことをお聞きになったら、どれほどにお嘆きになるか、とも。

 天皇陛下崩御の際に、マスコミはこぞって「天皇陛下特集」を流した。
 その中で……恐らくはこれは有名な話だろうけれど。

 天皇陛下は、相撲がお好きだった。だけれども、どの力士が好きかは一言も漏らされなかった。
 自分の言葉をかければ、それだけで不公平だからだ、と、仰せになったという。

 松岡、白鳥、という人については、己もよく知らない。ただ、確かに天皇陛下の御思いとは違う方向に日本を引っ張って行き、それだけに……卑近な言葉で言えば「こいつすかーん」と思われていたとしても不思議は無いと思う。
 だけど、そのことを公には一度もなさっていない。
 その判断こそが、陛下の真意ではないかと、己は思う。

 それにしても日経の記者と、このメモをその日経の記者に渡した人の真意こそが判らない。
 いや、真意は判るんだが……こういうものを「特ダネ」と判断する、その心が判らない。

                 **

 こういう話がある。
 これもまた、幕末に詳しい人には、よく知られた話だと思うのだけど。

 会津藩最後の藩主、松平容保と、孝明天皇の話である。

 Wikiには次のようにある。
               

『最後の藩主となった九代容保は、八代容敬の女婿となって美濃国高須藩の高須松平家から養子に入った。文久2年(1862年)、容保は京都守護職となり、更に新撰組を麾下に置いて(新撰組は、その後会津戦争まで会津藩の隷下にあった)会津藩士ともども尊攘派志士の取り締まりや京都の治安維持を担った。そして禁門の変では、孝明天皇を奪取しようとした長州藩勢から御所を守り抜いた。後に容保は、会津を頼りとしている旨が記された「御宸翰(ごしんかん)」を孝明天皇より賜った。

慶応2年12月(1867年1月)に孝明天皇が崩御すると、既に薩長同盟を締結していた薩摩藩、長州藩との対立が激化した。大政奉還、王政復古を経て慶応4年(1868年)、鳥羽・伏見の戦いにより戊辰戦争が勃発した。会津藩は旧幕府勢力の中心と見なされ、新政府軍の仇敵となった。この戦いで、明治天皇を奉じる新政府軍により、会津藩には先帝よりの御宸翰があったにも関らず、朝敵とされたのである。』



 この御宸翰を、容保公は死ぬまで竹の筒に入れて身につけ、一切人に見せなかったという。
 亡くなって初めて、周囲も『殿が守り抜いたもの』を見て……泣いたという。

 もし彼が、御宸翰を表に出したらどうなっていたか。
 少なくとも、会津藩の人々の『朝敵』の悪名は雪ぐことが出来たろう。何より明治天皇陛下の御父君の信書である。それも『忠誠』なる言葉が一つの勅語に2度も入る……それこそ勅語としては破格も破格の内容であったのだ。
 これだけの文章に、『爾臣民父母ニ孝ニ…』とある教育勅語を後に発せられた明治天皇陛下が、逆らえる筈が無い。

 朝敵とされた会津藩が明治維新中、またその後もどれだけ冷や飯を食わされたか、これもまた有名である。
 移された先は青森のむつ。仕事の調査で隣の下北半島には行ったことがあるが、海の傍まで森の張り出した、いやほんとに緑の多いというか……田舎である(下北半島の方、申し訳ありません)。福島県と比べると、その気象条件の厳しさは並ではなかったろうと思われる。
 それ以降、現在に至るまで、会津の人間は薩摩、長州に対して隔意があると言う。それだけの恨みを買うほどに、『朝敵』の名の下に、当時の人々は辱められ、貶められたのだろう。

 もし、御宸翰を表に出していたら、ここまでの酷い扱いを、彼らは受けなかったと思う。否、下手をすると明治天皇についた薩長こそ不忠の極み、と、言われても仕方の無いほどの勅語なのである。

 ただ、もし。
 この文書が表に出てしまったら。

 明治維新は、磐石の上に成り立っていたわけではない。直後に佐賀の乱、そして西南戦争と、勝った側からも大揺れが来たのである。これに『朝敵』側からこれほどの後ろ盾ごとの攻撃を受けたら、明治政府はどれだけ揺れたか判ったものではない。
 それに、明治天皇御本人も、不孝のそしりを受けることになったやもしれない。明治政府の最高の後ろ盾に『不孝者』の名がつけられたら。
 今の時代のように不孝者が容認されている(己だって当時なら、親に張り倒されて仕方ないわけだから)時代ではない。当時、これがどれほどの汚点となったか……これは恐らく今の己の想像を凌駕するのではないかと思う。

 でも、何より。

 容保公がこの御宸翰を表に出さなかった理由は。
 孝明天皇が、これを秘密に、と仰ったからである……と、己は思うのである。

 そもそもこの御宸翰は、禁門の政変の際の容保の働きを喜ばれた孝明天皇が、でも彼一人を褒めるわけにもゆかずに、こっそりと渡したものである(だから家来達も知らなかったし、薩長の面々も知らなかった)。時折歴史小説に出てくる『玉を取れば勝ち』なる台詞ではないが、大事にされながらも『駒扱い』にあった孝明天皇が、これは秘密に、と渡された、その願いを。
 容保公はゆるがせに出来なかったのではないだろうか。

 これを表に出すことが容保公にとってどれだけの誘惑であったろうと思う。旧会津藩の人々の窮乏が聞こえてこない筈が無い。これを表に出せば、と、一度も考えなかったとは思わない。
 それでも容保公は、亡くなるまでその存在すら知られないほどに御宸翰を隠し切った。
 玉と言われ、大切にされるようで……しかしとことん利用されるより他なかったのかもしれない一人の人が、心からその忠誠を信頼し、感謝したが為に。
 その言葉に違うことなく、容保公は忠誠を貫き通したのではあるまいか。


 この御宸翰のことを知った臣下たちは泣いた……と、資料館にて聞いた覚えがある。
 これを隠し切ることの辛さは如何許りであったろう。
 手の中に、家臣達を直ぐにでも助けられたかもしれない一撃必殺の武器を握っているようなものだ。それを使わないことに、どれだけの決断力が必要であったろう。
 どれほど殿はお辛かったろう……と。

            **
        
 己はほんとに疑問に思うのである。日経にこのメモを渡した人の心も、それに何よりこれを『特ダネ』程度に扱って、今に至るまで全てを公明正大に行おうとは露だに思っていなさそうな日経新聞の心も。

 天皇陛下のお言葉を、特ダネにまで貶め、それを如何にも忠義面してみせる、その薄汚さをさっぱり判ってないあたりとか。

 容保公が貫いた沈黙は、確かに今の基準からしたらおかしなものかもしれない。もっと上手い手があるよ、と、今なら言えるのかもしれない。
 けれども彼の守った沈黙に、明治政府は守られたと思う。
 そして孝明天皇は……恐らくはとてもとても、お喜びになったのだと思う。

 
 かつて会津の容保公は、己が藩の全てを賭けても、唯一無二の人の漏らした言葉を守り通した。
 時代が違うという。意識も違うという。
 けれどもせめてそれを『新聞の特ダネ』扱いするなんて真似を避けるくらいのことは、しても良いと思う。

 メモの真贋どうこう以前に。
 そんな風に……己は思うのである。


 
posted by 片帆 at 22:43| Comment(1) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
ご紹介させていただきました
Posted by 無料 at 2008年01月24日 19:03
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